HISTORYあゆみ・歴史

安達建設 120年余のあゆみ

安達幸三郎商店から
安達建設株式会社へ

安達幸三郎氏は安政元年に生まれ、明治18年に安達幸三郎商店を設立し、
造林業に従事しました。
昭和4年安達商会と改称、名古屋ゴルフ倶楽部の芝生造成に従事し、
以後宝塚ゴルフ倶楽部等数多くのゴルフ場の芝生造成工事を行いました。
安達幸三郎氏の次男貞市氏(貞市翁)が安達商会を引き継ぎ、この後、
ゴルフコースの建設から経営までその業績を広め、ゴルフ業界の第一人者と
認められることになります。

安達幸三郎商店から安達建設株式会社へ

ゴルフ界への進出

ゴルフ界への進出

昭和7年、貞市翁は、交流のあった市島亀三郎氏(株式会社丸通 社長)から
ゴルフ場経営に誘われました。
当時、ゴルフというスポーツは富裕階級の娯楽としか思われていませんでした。
折しもその少し前にゴルフを経験していた貞市翁は、これをぜひ大衆的なものにしようと計画し、倶楽部形式として会員を募集することにし、東京ゴルフ倶楽部(駒沢ゴルフ場)の岡本忠雄氏を支配人として、倶楽部をスタートさせました。

終戦後の安達建設

終戦直後、誰しもが混乱し今後の方向性に模索する中、安達建設も例外では
ありませんでした。
そんな折、貞市翁は、進駐軍より小金井ゴルフ場の復旧工事と二、三の造園
工事の発注を受けました。
これをきっかけに、梶ヶ谷ゴルフ場、さらに仙石原、山中、熱海など複数の
ゴルフ場の復旧工事、の発注を受け、工事が終わると引き続き維持管理作業
の発注を受けました。
こうして安達建設のゴルフ界での位置づけは揺るぎないものとなり、その後、戦後の我が国の高度成長期と共に、安達建設はさらなる成長を続け、今日に
至ります。

終戦後の安達建設

歴史

明治18年12月 安達幸三郎氏が安達幸三郎商店として創業
昭和4年 安達商会と改称
安達商会は名古屋ゴルフ倶楽部の芝生造成に従事、以後、宝塚ゴルフ場など多くの芝生造成工事を業とし、事業は隆盛に向かった。幸三郎氏の二男、貞市氏が安達商会を引き継いだ後、ゴルフコースの建設から経営とその業績を広め、ゴルフ業界の第一人者と認められるようになった。
昭和6年 銀座の柳 植樹
「東京行進曲」という歌の一節で知られる銀座の柳。この柳の木は貞市氏が東京市と朝日新聞社の要請を受けて、川崎から大阪まで探し歩いた。
昭和7年 ゴルフ場への進出(六郷ゴルフコース)
貞市氏は当時、貴族かひと握りの富裕階級の娯楽としか思われていなかったゴルフを大衆的なものにしようと考えていた。会員募集のため、電車の吊り広告までしたが反響は少なかった。
昭和18年8月 株式会社安達組へ法人化、改称 本社 東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目856番地
昭和21年6月 増資、新資本金150万円
昭和23年2月 安達建設株式会社へ社名変更
昭和23年8月 京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース建設(昭和24年8月)
京都府社会教育課より上賀茂神社境内に米進駐軍専用のゴルフ場を設置する旨の通達があり、建設省の岩沢次官が「安達の意見を聞こう」と言ったことから貞市氏がコースの建設に携わることとなった。当時としては「法人会員制」は斬新な試みであった。
昭和24年10月 本社移転、東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目996番地
昭和31年2月 本社移転、東京都杉並区荻窪地3丁目5番地(昭和44年11月 住居表示変更 荻窪4丁目10番13号)
昭和31年9月 茅ヶ崎ゴルフ倶楽部建設(昭和33年2月)
昭和32年11月 京都ゴルフ倶楽部舟山コース建設(昭和36年12月)
昭和34年12月 茨城ゴルフ倶楽部建設(昭和37年6月)
昭和39年6月 札樽ゴルフ倶楽部建設(昭和40年10月)
昭和40年10月 太宰府ゴルフ倶楽部建設(昭和41年10月)
昭和43年12月 朝里川温泉スキー場開場
昭和46年3月 日野ゴルフ倶楽部建設(昭和48年10月)
昭和47年3月 額田ゴルフ倶楽部建設(昭和49年12月)
昭和50年8月 増資、新資本金525万円
昭和56年7月 本社新社屋落成
昭和61年 コンピューターによるコース管理の導入
「琵琶湖の水質を守りたい」と、減農薬を考えていた日野ゴルフ倶楽部が、コンピューターで病害発生を予知するシステム開発に取り組み、富士通(富士テレコム社)の協力を得て昭和63年に完成。各ゴルフ場にも導入し、現在では撒水や施肥の管理もコンピューターで行っている。
昭和62年6月 増資、新資本金1050万円
平成2年6月 増資、新資本金1575万円
平成9年6月 増資、新資本金2000万円
平成14年5 本社移転 東京都足立区新田1丁目15番1号
平成24年12月 本社移転 京都市北区上賀茂本山無番地

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